著名人の方からのコメント

炎をコントロールするのが、料理人の腕の見せどころ。 安全性と機能性で話題の最新式ガス調理機器「ピピッとコンロ」を使って行われる、東京ガスの料理教室。一流シェフのお店の味が自宅で簡単に再現できると、毎回ご好評をいただいております。キッチンランド目黒において開催された今回の講師は、ウェスティンホテル東京 中国料理「龍天門」調理長、陳啓明さん。家庭でできる本格的な中国料理4品を教えてくださいました。講座修了後、気さくでサバサバとした笑顔が魅力的な、陳調理長にインタビューしました。



陳 啓明さん 陳 啓明さん ウェスティンホテル東京 中国料理「龍天門」調理長

1952年、札幌市出身。高校卒業後、京王プラザホテルに入社し料理の世界に入る。中国料理「南園」にて20年の間に渡り技術の研鑽を重ねる。1991年には新横浜プリンスホテルの中国料理「胡弓」に就任、1996年からはウェスティンホテル東京の中国料理「龍天門」の調理長として腕を振るう一方、TVや雑誌など各種メディアでも活動。



いい上司に恵まれるかどうか、最初が肝心でした。

Q.1:

お祖父様もお父様も料理人だったそうですが、子供の頃から料理人になろうと?

陳:

photoいいえ。実は子供の頃は料理人になりたくなかったんです。幼い頃は父の仕事の関係で札幌に住んでいましたが、中国籍なので中国語などを学んだ方がいいと、横浜中華街近くに住む祖父に預けられました。小学生だったので両親が恋しくて(笑)。年に数日札幌に帰っても、いつも親は仕事ばかりだったので、ずっと背中だけを見て育ちました。ご飯も1人で食べていたので寂しくて、料理人には絶対にならない!と思っていましたね。

Q.2:

それなのに、なぜ料理人に?

陳:

当時、現実は自分が考えるより甘くはなく、仕事の選択肢が限られていたんです。親が望んでいたのもあって、一番手っ取り早い料理人の道へ進むことにしました。両親は、できる限り早く体で覚えた方がいいから、中学にも行かなくていいと言っていたくらいです。本当は大学にも行きたかったんですけどね。でも一旦決めたのだから高校からは札幌へ戻り、料理人を目指しました。そして、高校3年のぎりぎりになって学校の就職課に行き、京王プラザの試験と面接を受けました。実は従兄からホテルオークラを勧められたのですが、募集がすでに終わってて(笑)。その後、自分の力を試したいのもあって自分で探しましたが、そううまくはいかず・・・。あの時、自分で見つけていたら、もしかしたら札幌で就職していたかもしれませんね。

Q.3:

それで、京王プラザの料理人になられたのですか。

陳:

photoそれが、最初に配属されたのは客室係だったんです。でも、かえっていきなり厨房に入るよりも、自分にとっては有意義な時間でしたね。父のもとで働いていたら気ままに過ごしてしまったと思いますし。大きい会社の組織の中で、新入生もたくさんいましたから、ホテルがどういうものかもわかりましたし勉強になりました。そして、いい上司にも恵まれました。社会における必要なことや、そのほかにもいろんなことを教えてくれ、今でもその時の上司とは交流があります。最初が肝心だと、今更ながらに実感しています。その後京王プラザの中国料理店に移りましたが、当時はレシピなどがある時代ではなかったので、目で盗みながら勉強しました。その当時に自分でレシピとして書き留め残していたのが、その後の運命の分かれ道だったかもしれません。香港のシェフに影響を受け、勉強し整理したたくさんの資料をいずれ使いたいと思っていたところ、当時の業界でも斬新だといわれ、一目置かれることになったんです。

Q.4:

その後、プリンスホテル、ウェスティンホテルと移られたわけですね。

陳:

はい。プリンスホテルでは5年くらい過ごしましたが、広東語をしゃべれる人がいた方が、ということで、通訳兼調理をしていました。当時は街場のシェフの寄せ集めで、まとめるのが大変でしたが(笑)、そのかわり、まとまった時に発揮する力はすごかったんです。こいつらにこんな力があったのか!と感動しましたし、苦しかったけれど楽しい5年間でした。そんな時、ウェスティンホテルから声がかかったのですが…最初、ガチガチの外資系の考え方が合わず、何度もお断りしました。プリンスの仲間と別れるのも嫌でしたしね。ところが、調理師会の「お前が行くしかない!」という一声で、行くことになってしまって。まさか、こんなに長くいるとは思いませんでしたが(笑)。当初は、3〜5年と目処をつけ、次に移りたいと思っていたんですよ。売上はいいから、マネジメントをして部下に仕事の良さを教えてくれるだけでいいと頼まれていましたが、入ったとたん、売上を上げろって言われて。もちろん、すぐに上げましたけどね(笑)。


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